飲料。
投稿者「shimen」のアーカイブ
舞い降りてきた
理想の
ベーコン
展を観に行った際に記念としての図録よりもこの人が何考えているのかがキニーし、
売店にあった安い方の対談集「フランシス・ベイコン 対談」を入手、
初めはバカ正直に時折本文より多いんではないかと思われる注釈も一緒に読んでいたものの、
数ページで対談集中モードにシフトし、先ほど読み終えた。
なぜキニーしたかというと、作品横に書いている解説を
「考え過ぎじゃねえか?」と思ってしまったことと、
エジプト美術、特にスフィンクスの影響と思われる肖像画
初めてこれだけの数の作品を観た時に所々に感じた様子のおかしさなどにある。
その中で浮かんできたのは
- この人は作家としての底を見られるのを恐れているのではないか
- 自分の意図とは別の所で評価されているのではないか
- アトリエの散らかりようは演出ではないか
などという下世話な興味。べつに上記の点がどうであろうと作品は素晴らしい
(言ってもアレだし書いてしまうとなんだが、かっこいい)のだが、
この仮説がはまったら超親近感が沸くというもの。
……結果としては2点目は多少そういうこともあるようだが、
自分の妄想を突き抜けて素人視点でいうと「めんどくさい人」で、
そしてアカデミックな教育を受けていない点も独特の世界観を作り出しているようだ。
まだまだ「掘れる」気ががするので、
売店で「高くて手が出せないけどホントはこっちなんだろな」と購入をあきらめた
「肉への慈悲―フランシス・ベイコン・インタヴュー デイヴィッド シルヴェスター」もそのうち手に入れたいと思う。
ちなみに訳者のあとがきからも、メインは筑摩のほうという感じがプンプンした。
a.k.a.
吊るし上げ
一昨日の
話。
12・3年前に合宿教習で運転免許を取得するために
原町にたしか2週間ほど滞在した。
比較的馴染みのあった中通りとは異なる聞き取りづらい方言による教習と、
寮と教習所の間にあるTSUTAYA、シャッター化しつつあった商店街、
近所に住んでいた自分と同じ名字の右翼の存在など
断片的な思い出しか残っていない。
しかし、自転車を借りて一度だけ訪れた、
左手に発電所(火力だった)が見えた海岸を津波が襲い、
まさか右手に原発が(あったことすら自分は認識していなかった…)
事故を起こすなどとは考えもしなかった。
そのエリアから少し南の辺りを主に描いたドキュメンタリー映画は、
あの訛りの聞き取りづらい方言も字幕無しで
震災後の夏辺りまでを淡々と描いていた。
気が晴れたり溜飲を下げるようなことはないが
きっかけと背景が大きいものの
変なバイアスやメッセージなどを突きつけることなく
人が在り、暮らしている様をただ追い続けるさまが腑に落ちた。
江戸川区平井で『相馬看花』を観た。